「野川にホタルを再生」プロジェクト |
プロジェクトの始まり |
昭和60年、野川公園の整備のために赴任した松永黎俊所長が、緑の監視員に「田んぼを再生して、ホタルを復活しませんか」
と呼びかけて、市民参加の公園づくりが始まった。
そして、市民アンケートによって自然観察園に、「ほたるの里」がつくられた。
昭和62年、当時、多摩動物公園の矢島稔さん(現・ぐんま昆虫の森名誉園長)の紹介で、ホタルの幼虫を入手し、
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故鍔山英次氏の平成元年の手記 |
昭和63年末、大岡昇平さんは40年ぶりに野川を訪れ、その時に書かれたエッセイ「湧水ふたたび」の最後をこう結んだ。
戦後の日本文学を代表する老作家がなんのためらいもなく”わが青春は・・・”と言いきることの凄さを思った。
野川の岸辺に立ったその日、大岡さんは少年のように無邪気だった。
双眼鏡を胸に、登山帽にスニーカーといういでたちで、立ち入り禁止の立札を無視して川に近づいたり、湧水を口に含んだりした。
変わってしまった四周の風景を見ながら、川の流れを手がかりに昔日の記憶をたぐり寄せているようにも見えた。
そうした動作のなかに、代表作の一つ「武蔵野夫人」の舞台となった野川に寄せる作家の思いの探さがうかがわれた。
野川再訪の案内役をつとめるはずだった私たちは、逆に老作家の四十年前の野川の様子を聞きながら、いつの間にか美しい野川に遊んでいたような気がする。
散策のあと湧水を沸かして入れたコーヒーを美味しそうに飲みながら、大岡さんは誰にともなく「あの川にもう一度ホタルが
舞うようになればね」ともらした。
いまになって、あれはわれわれに手渡した書置きだったように思われるのだが。
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平成期にも続いた努力 |
平成17年、山田さんは、東村山市に住むホタルサミットの会員からホタルの幼虫を32匹分けてもらい、
山田さんが8匹を育て、13匹を中村美術館裏の水路に放流した。
山田さんは、持ち前の緻密な工作力で、水槽と網箱の2段セットを作り、幼虫にカワニナを与えて育て始めました。
水槽で、幼虫に適切に餌を食べさせるのは容易なことではない。毎日、細かく観察を繰り返して、小さい幼虫には小さいカワニナが必要だ、しかし、これは難しい。そのかわりに、不安の中でも小さい二枚貝を探してまわり、苦労を重ねたという。
そして、ある日の夕方、帰宅したら、暗い網箱の中で、ゲンジボタルが翡翠色の光を放って、感動の瞬間を迎えることができたという。
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一方、山田さんが美術の森に11匹を放流した幼虫が、翌18年に羽化し、源氏ホタルが8頭飛翔した。翌々年には、
30頭以上が飛翔し、はけの小路の水路でも、翡翠色のホタルの飛翔がみられた。
その後も毎年、馬目さんが、続いて横山さんが観察を続け、平成3O年まで発生を確認しました。近年になっても、
野川ほたる村の横山さんが、水路を塞ぐ過剰な落ち葉を取り除き、流れを維持したり、アメリカザリガニを駆除したり、
生息環境の維持に努めてきましたが、天敵のザリガニも絶えることなく、年々飛翔頭数は減少した。
そして、令和元年の干ばつで、長期にわたって水路が干上がり、ホタルの飛翔は見られず、ホタルは絶えたとみられる。
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令和の奇跡 |
平成30年(2018)6月驚くべき事が起きました。
自然観察センター北側にある野川の柳橋から桜橋間に、”ホタルが自然発生”したのです。
”野川本流で自然発生”したのです。「ほたるの里」では、長い間あれほど苦心しても、増えることの
なかったホタルが”野川本流で自然発生”したのです。みんなは”奇跡”だと喜びました。
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今後の対応 |
ほたる村村民であり野川公園ほたるグループのメンバでもある横山さんは語る
『「野川ほたる村」の当初の活動の原点である、野川でのホタルを飛ばせる環境を!
という本来の目的にかなった状況が到来し、この目的に向かっての出番である』と。
そして、ホタルが持続的の飛べる野川の条件、カワニナの生息条件等の整備の取り組む
必要があると力説している。
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